追悼文12 櫻井先生の固い信念 奥中孝三 ローマ字 第3号 34巻<1939>
 
 門野会頭が御逝去になって間の無い11月末のある土曜日のこと、私は会頭問題について櫻井先生の御意見を伺う為めに曙町のお宅を訪ねた。その日は可成り冷気の身にしみる初冬であったが、和服姿の先生はいつになく「エネルギーが足りないのか、どうも寒くていかん」と半ば冗談めいた口調でそう仰りながら電気ストーブに手をかざされた。そのお言葉で私はふと一種の不安な予感に襲われたのであった。それから二ヶ月の後にとうとうそれが悲しい事実となって現れたのである。今は最後となったその日の先生のお姿がありありと脳裏に刻まれているが、最早それは永久に再現の出来ない夢と化した。まことに悼しい限りである。 しかしその日示されたローマ字に対する先生の信念は、烈々として燃えるが如きものであった事を思い浮かべると、私はじっとして居られないような迫力を感ずるのである。

 明治3年金沢藩立の致遠館で英人オズボンから直接英語を学ばれた先生は明治9年選ばれて化学研究の為め倫敦大学に留学せられ、第一学年末には百余名の同学年中首位を占めて金牌を得られ、第二学年では物理化学の合併競争試験に又第一位で合格せられ、奨学金100ポンドを賞として受けられた程、英語にも専攻の物理化学にも堪能であられたのであった。この一事を以ってしても先生が生涯世界的の碩学として重きをなされた訳が首肯せられる。

 又先生は1月23日に御発病以来、高熱に悩まされながら、学士院や学術振興会のことを気に掛けられ、ことに28日臨終直前に於いても「御参集を願った諸君に挨拶を申上げる」とはっきりした御言葉で起き上がろうとせられたとの事であるが、最後の瞬間まで如何に先生が我国興学のために忠実であられたかが伺われて自ら頭の下がるのを覚える。

 同時に先生はローマ字に対しても明治18年の羅馬字会に於いて、今日世界的の綴り方として通用している標準式ローマ字の基礎的綴り方の制定に尽力せられて以来、之を唯一のものとしてその82年の生涯を通じ”Joji  Sakurai”の綴りを固持して来られ、明治38年本会の創立に際しては早速幹部級の会員となられ、常に標準式を主張して譲られなかったのである。然るにその後、某博士一派の以而非<ニテヒナル>ローマ字が跋扈<バッコ=踏み越える事>するに及び、その振舞いを苦々しく思って居られたが、先生の高潔な人格は、所謂<イワユル>運動がましい行動をとるような事は一切なさらず、又斯<キ>る真似をしてはならないと我々若輩にも常に戒めておられた程であるから、久しく彼等一派のなすがままに任せて傍観的の態度を持して来られたのであった。

 それは兎も角として、昭和3年先生が万国学術協議会に出席せられて御帰朝になった時、我が会では一夕先生を招待したのであるが、その時のお話では、一流の悪辣な運動に愛想がつきて、とうとうローマ字そのものさえ嫌になって仕舞っていた。しかし我国文化のため、最早それを黙過する事が出来ないと思うから、これから又その統一に尽力したいと思う、という意味の事を話されたのを覚えている。之が後、他の先輩の方々との進言により昭和5年11月文部省に臨時ローマ字調査会の設けられるに至った動因をなしたことは確かである。

 ところが折角出来た調査会も事毎に先生方の意図に反する様な始末となって仕舞ったので昭和11年6月の最終の総会には櫻井先生は最早我慢が仕切れず、とうとう辞表を叩きつけて退出された次第であった。ローマ字ことに標準式に対する先生の主張は昭和6年1月の総会で述べられた「両式の批判」によって明らかであるが、先生はその論評の態度を劈頭<ヘキトウ=真っ先>に掲げ、問題の重要な点一、二につき、「公平無私の態度を持し、条理に照らし、常識に訴えこれを解剖して見たいと思う」と前置きして、両派の情勢から、綴り方の由来、名称、公明なる宣伝、標準式の形勢、将来の形勢、実際から来る結論、根本主義の相違、言葉の音と仮名の形、許容法の取極め、標準音、英語は便利等につき所謂党派心を超越した立場で条理の命ずるところに従い率直に且つ仔細に堂々とその持論を発表せられ、その公平無私な議論には委員の大部分が耳を傾けたと伝えられた。先生のこの時の意見は後昭和8年8月「標準式ローマ字」という題名でローマ字ひろめ会から刊行されている(希望の方は京橋区新川ニ丁目、日清製油ビルない本会宛送料共金五十六銭を御送金下さい)<原分のまま>

 調査会で採択された彼の鵺的<ヌエテキ=あいまいで正体不明なさま>なローマ字が当局に採用せられるや、先生は国家の体面にも係わる重大事であるを憂慮せられ、学界、政界、実業界の名士達と共にこれが善処方につき近衛前首相に進言せられた外、更に財団法人標準ローマ字会の組織に協力して標準ローマ字の主張の貫徹に力を尽くして下さったのであった。果たせるかな新ローマ字に対する非難攻撃の聲は内外各方面より湧き起こり、それが益々強化せられんとして居るのであるが、その矢先に俄かに先生を失った事は誠に遺憾至極である。

 しかし先生は私の最後の面会日であったその日も、条理に反した当局の措置は遺憾であるが某々省の今の当局者も追々その非を悔いているようであり、社会一般がこれを見送っているのはせめてもの慰めであるとの意を洩らされ、続いて標準式ローマ字の運動は今後益々大にすべきであり、又必ず標準式に復舊<旧>するのが当然であると固い信念を示された。

 現に先生の主宰して居られた帝国学士院をはじめ日本学術振興会、学術研究会議、その他の学界、団体でも先生の御存じの範囲内では全然新式を認めないという態度をとって居られたのである。先生のこの固い信念は今や澎湃<ホウハイ=勢い良く盛んな様>として内外より起こっている非難の聲によって裏付けられて居り、将来日満支文化の為にも標準式ローマ字が最適のローマ字であるから、旁々<ホウホウ=盛んな様=三省堂漢和辞典>先生の主張は早晩貫徹せられる事と思われるが、これが為には我々会員も先輩功労者の方々の意を空しくしない様に、努力する覚悟がなければならない。

追  悼  文
  1    大幸勇吉   2     柴田雄次   3      片山正夫   4     市河晴子
  5     阪谷芳郎   6  Yamaguchi Einosuke   7     桜根孝之進   8    佐佐木信綱
  9   Mizuno Yoshu   10    小原喜三郎  11     宮崎静二  12    奥中孝三
 13     大西雅雄  14     大幸勇吉  15      柴田雄次  16     鮫島実三郎